薪つくり 木の優しさ 願いをかなえる

薪つくり 木の優しさ 願いをかなえる

願いをかなえることは意外にもっと簡単なのかもしれないこと。と木の優しさ。について。

昨日、ご近所さんが電話をくれて、廃材がいっぱい出るから持ってきてくれるという。ちょうど、薪が尽きそうになっていたところだったので渡りに船。ありがたい話。午前中にトラックが行くからとご近所さん。十時過ぎにやって来たのは4トントラックだった。駐車場として借りているスペースを急遽薪スペースにさせてもらってそちらへドドドと大量の廃材がやってきた。四トントラックにびっちり、きっちり材木が上手に満杯。後ろからみたらテトリスみたい。それがひとやまやってきた。これどうするん??って量。それとともにすごい豊かな気持ちも湧き上がってきた。これはしばらく大丈夫だわ。

すごく立派な材料。街中の眼科の近くのお家を取り壊して、その家を長きにわたり支えてきてくれた建材ということだ。その眼科なら先日受診したばかり妙なシンパシーを覚える。

持ってきてくれたのは於与岐の隣の上杉のあたりで鳩を飼っている、自動車の整備をしたりするなんでもやさん。良く焼けた肌、肌つやよく、目力のあるおっちゃんだ。もう一人のいかにもガテン系なチェーンのネックレスをぶら下げているお兄ちゃんも人がよさそう。この人たちにとったら、この廃材はお金を払って処分しなければならない産業廃棄物。もらってくれる人がいたらもうどうぞどうぞ。ということらしい。二日にいっぺんくらいこの量が出るらしい。はーーっとなる。そしてふとこの廃材があれば薪窯もできると思った。うれしい出会い。

日曜日は薪を作った。木は優しいと感じた。昨日までは家としてあった木は今や解体されて私たちの目の前で薪になるべく、ストーブや風呂窯のサイズに切って、割られている。なんだかそのことがずいぶんすごいことのように感じた。木ってすごい。木って優しい。私が聞こえないだけなのかもしれないがこの間、木からの抗議や文句は聞こえなかった。むしろ、薪割をするときにはスパッとわれて、スパッと割れようものならなんとも気持ちがよい。薪割りをしていて感じたこと。

どこかにスイッチがあるのだ。木口のどこかに、そのスイッチを押してやれば木は自動でわれてくれる。自動薪製造スイッチ。この木たちはその気になればこんな斧を使わなくても私たちの目の前でいくらでも薪になってくれるんだろうな。という気がした。ただ、そんなことがこの地球上で起こると人類というのはとってもビックリするだろう。だからそういうことはまだしない。その代わり百歩譲って斧を振りかざした時にパカッと割れるシステムを用意してくれている。そうすることが願った願いを一番すんなり受け入れられるでしょう。というふうに聞こえた。(本当はもっと簡単だけど、人間は難しい事が好きだから)このスイッチを押せば木は割れてくれるのだ。私たちが今度は薪として使いやすいように。

この木の気前の良さにも頭が下がる。願いを叶えるにはアクション、努力が必要だというのも幻想かもな。と思った。いつだって願いは叶いたがって願いは願ったそばから叶うのルートが開通するのをワクワクしながらまっている。つまり、叶うためにアクションが必要だと感じている人にはそのアクションをルートにする。そうじゃないと人間はビックリしてしまうから。魔法じゃないんだから!って。もしせっかくの叶うなのに受け入れてもらえなかったら叶うサイドの存在もじつは寂しいのかもな。だからその人にあった方法で一番自然に願いが叶って、その人間が喜んですんなり受け入れられる方法でかなえてくれるんだろうな。

本当は開けゴマ!の一言でも良いのかもしれない。 なんてことを一生懸命薪割りしてくれている夫にはちょっと言いづらい。

ふと横をみるとさっきから子ども達が柱材をシーソーに見立てて遊んでいる。柱材の端に立ち、ギコバコとリズムをとりながら、体全体でバランスをとりながら踊るように楽しそう。飽かずずっと遊んでこの木は薪にしないでくれとのこと。木は私たちが作業しやすいように子守りまでしてくれていた。ああ、なんて優しいんだろう。そのあと早速できた薪で焚いたストーブはとっても暖かかった。ありがとう。ありがとう。豊かな日々です。

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